葛飾北斎『隅田川両岸一覧 下編』「吉原の終年」

吉原の狐舞ひ(きつねまい)とは、狐の面をかぶり、両手に御幣または御幣と鈴を持って舞い、鳥目(=穴あき銭)を受けた。江戸時代の吉原で大晦日に行われた行事であります。

吉原の大晦日の様子を描いた上記の浮世絵では、囃子方を引き連れ、両手に御幣と扇を持った狐を確認することができます。
この狐や「狐舞ひ」というものは、どういったものなのか。残る文献も数少ないなか、江戸時代に好事家が江戸市中の風俗や、行事をまとめた『絵本風俗往来』に以下の一節が記載されています。

「其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり」

『絵本風俗往来』の一節より。

『絵本風俗往来』等によると、吉原という町には獅子舞では無く「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れ、遊女たちを囃し立て、追いかけまわしたとされています。遊女たちの間では、この狐に抱きつかれてしまうと子を身ごもるとの噂があり、身ごもっては商売ができない遊女たちは、おひねりを撒いて抱きつかれるのを防いだという、一種の鬼ごっこのようなものが「狐舞ひ」のルーツとなっているようです。

大晦日に現れたというその狐の姿は、他の狐面とは異なり、にこやかな笑顔で、赤い熊の毛を付け、錦の衣をまとった美しい姿だったとのこと。江戸時代に、この「狐舞ひ」を見たことがない者は不粋者である、とも記されているほど、当時は吉原の中でしか見ることができなかった粋な芸だったことがうかがえます。

この謎の多い「狐舞ひ」を現代に蘇らせようと、浮世絵等に描かれている姿を参考に、有志によって吉原狐の再現が行われました。