江戸名所 吉原仲の町桜時(歌川広重 画)

遊郭には遊郭での遊び方がありました。見世にもよりますが、遊女と遊ぶのには引手茶屋を通さずには遊べません。引手茶屋で宴席の準備をさせ、茶屋男の案内で見世に登楼しなければなりませんでした。
解りやすく言うと、引手茶屋は案内所。案内所で段取りをして、見世に連絡。そして料理を注文という仕組み。

引手茶屋が全てを段取りし、料理などの中間マージンを搾取、見世は更にそれに上乗せするというシステムだ。

見世のランクは以下の通り。

大見世 中見世 小見世
OOMISE HANNMISU KOKOUSI
惣(総)籬 半籬 惣(総)半籬
揚げ代2分 揚げ代2朱・2分 揚げ代1分以下
格子が見世(みせ)前から入口土間脇まである。揚代1分以下の遊女はいなかった。 茶屋を通さないとあがれない 土間脇の格子が上半分から四分の一ない。揚代2分以上の遊女が交じっていたので交見世(まじりみせ)とも呼ばれた。茶屋を通さないとあがれない。 格子のすべてが下半分しかない。揚代1分の遊女がいても一人のみ、ほとんどが揚代2朱。  フリーの客でも大丈夫。

 

ランク 元吉原初期 元吉原末期 新吉原初期 新吉原末期 以降
太夫 太夫 太夫 太夫
格子 格子 格子 格子 呼出
昼三
散茶 散茶 附廻
梅茶 座敷持
部屋持
切見世 切見世 切見世 切見世

引手茶屋は、揚屋制度がなくなってから出来た制度。
揚屋の格式ばった制度を多少簡略化したシステムになった。

散茶女郎が登場する寛文期に局女郎の揚代が20匁から15匁に値下がりする。散茶が15匁だったため対抗して同値にしたのである。これによって散茶の格が知られる。
散茶との競り合いに負けた局は、元禄期(1688-1703)に梅茶と切見世女郎へと格落ちしていく。中途半端な格となった端女郎は消滅。
時代が下るにつれ揚代は上昇し、寛保期(1741-1743)には昼夜で太夫銀84匁、格子60匁(元禄以降の公定は1両銀60匁)、散茶は金3分、金2分、1分の三等に分かれる。散茶の勢いは衰えしらずで、太夫は老舗玉屋山三郎の小紫と、同じく老舗三浦屋四郎左衛門の薄雲の二人のみ。格子女郎も19人となる。
宝暦期(1751-1763)になると老舗三浦屋四郎左衛門の遊女屋が宝暦5年に廃絶、一人となった玉屋の太夫花紫が宝暦10年に消え、揚屋制度も滅び る。散茶のみが勢いを増し明和期(1764-1771)に表のごとく揚代を上げ、三分化したそれぞれに名称が付くようになる。

※1両は4分、1分は4朱、4朱は1000文。以上は公定相場実際は4朱は1500文ほどだと思う。
よって2朱は750文。

天明期(1781-1788)になると、この頃全盛だった扇屋宇右衛門が五明楼と名乗り、これを嚆矢に丁子屋が鶏舌楼、松葉屋が松葉楼と楼号を付けるのが流行り、遂に新吉原の遊女屋は屋号から楼号へと変わった。また遊女屋の主人を以前は「遊女が親父」きみがてて)といっていたが、これもただ「爺」(おやじ)と呼ぶようになった。